Be Good Boys

行き当たりばったりの人生、それもまた良し。
サーフィンという最高のアメリカン・カルチャーを運んで来た男

テッドインターナショナル 阿出川 輝雄

日本のサーフィン史を綴った記事には必ず、その名前はある。1960年代初頭、憧れだったアメリカに単身で渡り、日本では、まだあまり知られていなかったサーフィンの虜となり、1966年に東京・神田でサーフボードの製造を始めた男、テッド阿出川。ボード作りのノウハウを本場からいち早く持ち帰り、サーフボードメーカーの草分け的存在として日本におけるサーフィンの発展に貢献するとともに、70年代、日本を席巻したアメリカブームの火付け役となったことで知られている。

憧れのアメリカンライフ

 「TERUOじゃ呼びにくいから、TEDでいいわね?」

 1日3食付で、月にわずか75ドルという好条件で利用できる長期滞在者向けの宿泊施設「クラタボーディングハウス」で生活をしていた阿出川輝雄は、そこの女将からそのニックネームをもらった。親しみを込めて、誰しもが、彼のことを呼ぶことのできる響きのよい呼び名「テッド」だ。

 1964年、1ドルの換金レートが360円の時代、大学3年だった阿出川が、憧れていた米国に単身乗り込んだときのことである。外貨持ち出し規制も厳しく、日本から持っていける上限はたったの500ドル。長期滞在をしたければ自分で働いてお金を作るしかない。

 しかし、渡米に際して阿出川は外務省の担当者から3つの厳守事項を聞かされていた。

「2週間以内に帰国すること。滞在中に仕事はしないこと。アメリカ人女性と結婚はしないこと」

 東京オリンピック開催を期に、海外観光渡航の自由化が始まったばかり。年に1人1回きり、持ち出し金額にも制限のある時代ゆえに設けられた渡米に関する厳しいルールである。しかし、ようやく夢が叶ってアメリカに飛び出そうとする男の耳に、そんなこと入るわけもない。

 案の定、入国して間もないうちにテッドは、庭師として仕事を始めていた。手が器用だったこともあり、庭師の仕事をみっちりと1週間も叩き込まれれば充分、仕事の要領もすぐに身についた。日系二世をはじめ米国移住組の日本人先輩が大勢いるなか、あっという間に、一日、25ドルを稼ぎ出せるほどの技術を磨いたのである。

 「なんたって、たったの500ドルだからね、10日も生活すればなくなっちゃうよ。アメリカ人の家を一日に何件も巡り、庭の芝を刈ったり、刈った草や落ち葉を掃除したりときつい仕事だったけど、お金になったからね」

 お金も欲しかったが、それ以上に米国での滞在時間が欲しかった。地元日系人の紹介で、庭師の仕事をすれば滞在期間の延長申請が認められる。そのことを知ったテッドは迷わず庭師の仕事を引き受けたのである。

 当初、週に3日間の契約で始めた庭師の仕事は、徐々にその日数が増えていった。日本では大卒の初任給が10,000円にも満たない時代。数日働けば、そのぐらいの金はすぐに稼げた。

 当時、庭師の仕事は日系人の言わば専売特許。日本人の器用さと真面目さが叶えた独占的稼業だった。仕事は朝早くからはじまり、1日に6~8件、多いときには10件もの米国人のセレブ家庭を訪問し、そこの庭や玄関先を綺麗にするハードな仕事だった。だが、捉え方によっては米国のお金持ちの家々を訪れ、アメリカ人のライフスタイルを直に触れることのできる貴重な時間とも言える。後にテッドがはじめる文化や遊びをアメリカから運んでくる仕事の切っ掛けは、実は、アメリカンライフを肌で感じることのできた庭師の仕事を経験したことにあったのかもしれない。

 昼間は庭師としての仕事をしながら、夜はアダルトスクールで語学の勉強に励むといったテッドのアメリカでの生活は、瞬く間に過ぎていく。

 「ドライブスルーのあるマクドナルドなんかも新鮮だったし、それまで白黒画面でしか見たことがなかったようなアメリカのドラマのなかに、飛び込んだような、そんな感じがしてさ….とにかく明るくて、眩しかったよ」

 見るものすべてが珍しく、目に飛び込む光景が眩しくさえ思える。強い好奇心と人懐っこいおおらかな性格。その人柄も相まって、アメリカの風土にテッドはすんなりと馴染んでいった。

1964年、テッドが大学3年生のとき、憧れだったカリフォルニアに始めて足を踏み入れた。目にするものすべてが新鮮で、眩しくさえ思えた。
庭師の仕事をもらい、白人上流家庭の家々を回りながらアメリカ文化を身につけていった。写真左は庭師の仕事をいろいろと教えたもらった鈴木先輩。
ドライブスルーのマクドナルド。今では当たり前の光景も当時はアメリカのドラマにの中で生活しいるような感覚だった。
サーフィンとの出会い

 仕事場は、日本人タウンとして知られているガーデナーという街だったが、住んでいたのは、そこから車で30分ほど北西へ行ったサンタモニカ。車を持っていなかったこともあり、仕事場との往復は、いつも仕事仲間に乗せてもらった。早朝から始まった庭師の仕事は、陽の高いうちに終わり、家の前で車を降ろされると、午後の退屈な時間を近所のホットドックスタンドで過ごすようになっていく。やがてそこでアルバイとして働くひとりのサーファーと親しくなった。

 仕事にも慣れ、経済的にも余裕が出てきて、そろそろもっと刺激的なことをしたいと、思い始めていたそのタイミングだった。

 「今度の土曜に海に行かない」

 久しぶりにホットドックスタンドに顔を出したテッドは、親しくなったアレンから、そう誘われた。

 「奴の車のなかにはレコードプレーヤー※1があってね、針が下から出ているプレーヤー。車の中でレコードを聞きながら海まで行くのだから….たまげたね、とにかく格好よかったよ」

 さらに、海に行ってテッドは驚いた。サーフボードを抱えた多くの若者たちが賑やかに歩いている。ハワイのような大きな波でのサーフィンは知っていた。だからサーフィンは特別なものだという先入観があった。しかし、今、目にしているのは、日本のビーチサイドとも似た砂浜を、若いサーファーたちが楽しそうに歩いている姿だ。

 これだ!テッドは直感した。

 「これならば、日本でもできる!」

 「庭師の仕事をしに米国に来たわけじゃない。サーフィンを日本に持ちかえって、これを仕事にしてみたい」

 その後、毎週末をアレンと海で過ごすようになったテッドは、サーフィンにのめり込んでいった。来る日来る日もサーフィンのことばかり考え、同時に、日本でそれをビジネスとする夢もどんどん膨らんでいく。アレンとともにサーフショップへ何度も通い、サーフボードの製造方法を見て学んでいった。

※1 1956年にクライスラー社が初のカー・レコードプレーヤーの搭載に成功して以降、1960年代にかけてPHILIPS社、RCA社など複数のメーカーでカー・レコードプレーヤーの開発が進んだ。ちょっとの振動で音飛びするレコードプレーヤーが車に持ち込まれるという発想がなんともアメリカらしい。



手探りで始まったサーフボードづくり

 移民局からビザ延長の許可をもらっていたとはいえ、出国の際に外務省から言い渡された2週間という滞在期間からすでに3ヶ月もオーバーステイをして、ようやくテッドは帰国した。

 帰国後すぐにでもサーフボードづくりをスタートさせたかったが、始めようにも日本ではボードを作るための材料も道具もない。さらに言ってしまえばシェイプの知識だってないのである。

 ただ、カリフォルニアで遊んだボードの記憶と、サーフショップ裏の作業場で見たボード作りの光景を頼りに、ボードを作り始めるしかなかった。

 「とにかく、材料もないしね、まずは、胴体の内部を支えるキールにベニア板を張り付け、その上にガラス繊維を巻き付け、ポリエステル樹脂をコーティングして作ってみたわけさ」

  後に奥さんとなる百合子のお兄さんがヤマハのモーターボート関連の仕事をしており、FRP(繊維強化プラスチック)の知識があったことにも助けられた。材料のポリエステル樹脂を手にいれることもできたのもまた、お兄さんのおかげだった。あれこれと試行錯誤の末、サーフボード第一作目は完成した。アメリカで見たものとは少し違う形ではあったが、耐水性もあり、海で充分に遊べる代物だった。


伊豆白浜。すでに多くのサーフチームが日本中にできており、よく海岸で鉢合わせもした。

 実はその頃、日本でもボード作りに興味を持ち、テッドと同様に独学でサーフボード作りをはじめていたパイオニアたちが何人かいた。しかし、誰一人として、ボードの作り方を正しく理解していたわけではない。製造マニュアルがあるわけでもなく、海外から持ち込まれた雑誌に出ているサーフボードの写真を見ながら想像するか、日本に持ち込まれたボードを見て研究するしか方法はなかった。

 そのうちのひとり、東京の北千住でボード作りをしていたのがダックス・サーフボードの高橋太郎※2だ。

 「川向こうにサーフボードを本格的に作っている人がいるらしいよ、と、兄貴から教えてもらい、自分と同じことを考えている人が近くにいることがわかったら、居ても立ってもいられなくてね」

 テッドは早速、高橋のもとを訪ねた。自分もサーフボードを作りたいことを高橋に伝えると、「日本にも何社かあってもいいよな、一緒に頑張ろう」と、嫌な顔ひとつされることなく迎えられたという。

 高橋は当時、アメリカのサーフィン雑誌を図書館に出向いて読みあさったり、葉山海岸で出会ったアメリカ人サーファーの持っていたボードを見ながら、ボードがウレタンでできていることをすでに突き止めていた。

 帰り際、テッドはウレタンフォームを高橋から貰い受けた。エールのみならず、ウレタンまで手に入れたテッドは、そのときボードづくりへの意思をあらためて強くした。

※2 1941年〜2014年。1959年、一冊の雑誌に掲載してあったハワイ、ワイキキビーチの写真を見てサーフィンを知り、独学でサーフボード作りを始める。第一号はベニア板と樽木で作ったボードに黄色のペンキ塗りたぐったものだった。その後、改良を加え、発泡スチロールに新聞紙を巻いたものを樹脂で固めてたり苦心しながらボードを作り上げていく。1961年にダックスサーフィンクラブを設立。1963年に「サーフボード会社ダックス」を設立。日本のレザークラフトの草分け「ゴローズ」の吾郎氏を叔父に持つ。1993年に東京都足立区北千住から千葉県いすみ市岬町へ移住。

サーフボード製造事業のスタート

 作業は、南千住にあった百合子の家のひと部屋を借りて行われた。近くの材木屋から購入してきた10尺(約3m)の杉板を、サーフボードの反り上がった形状にノコギリで切り、それをボードの芯(ストリンガー)として、サイズ150㎝×30㎝、厚さ1.5㎝の硬質ウレタンフォーム2枚ずつ左右に並べて樹脂で固める。樹脂は、硬化剤を混ぜることで固まるが、その速度は気温や湿度によって異なり、暑い日などには手際よく張り付ける必要があった。杉板とフォームを合わせ、それを自転車用のゴムバンドで巻いて固定し、樹脂が固まるのを待つ。均等の圧をボード全体にかけないといけない。さもなければ、芯となる杉板が歪んでしまい、ボードの形状はおかしな物となる。

 翌日、固まった4枚のフォームに、画用紙をつなぎ合わせたテンプレートを置き、鉛筆でアウトラインをなぞり、その線にそってノコギリで切り落とす。続けて、杉板のカーブに沿ってボードのボトム部分を、これまたノコギリで削いでいく。大工用カンナなどいろいろと試してみたが、最終的に、氷を切るノコギリを利用するのが一番具合よかった。

 ボード製造は、基本的に現在でも手づくりで行われているが、今のように豊富な道具があったわけではない。金物屋で出かけては、利用できそうな道具を探し、使いやすそうな道具を見つけてはそれを使用した。削り粉や樹脂の悪臭の問題もあり、結局、ほとんどの作業は屋外でやることになった。

 その頃、日本にあったフォームといえば日清紡で冷凍車用の断熱材として開発された畳ぐらいの大きさの発砲スチロール材ぐらいしかなかったが、やがて、建材用のウレタンフォームを東洋ゴムが開発し、それを仕入れることもできるようになり、作業も大幅に楽になっていった。さらに義理の兄貴のつながりで、大日本インキから250番手のガラスクロス、8010番のポリエステル樹脂、コバルト硬化剤といった材料も入手でき、テッドサーフも、徐々にボードメーカーとしての体を成していったのである。

デパートでサーフボードが売られた時代

 しかし、1本のボードを削るのに費やされる時間は4日間。しかも、バルサ材などを用いて別途仕上げてあったフィンを、ボードに装着する作業がそれに加わり、ようやく1本のボードは完成する。ビジネスとするにはあまりにも手間がかかりすぎた。

 「とにかく最初は大変だったよ。ボードもそんなに数が作れないし、本当にうまくいくか心配だったしね。万が一、失敗した場合に家業を継げるようプリントネクタイの会社で営業マンとして働いたこともあったよ」

 ボードづくりの傍ら、テッドは、ネクタイを鞄いっぱいにつめて銀座や日本橋のデパートや小売店を歩き回った。一所懸命働いても月給はたかだか3万円にも満たない。

 「何が嫌だって、その姿を友達に見られたくなかったよね。なんとしてもサーフボードを成功させ、生計が建てられるようにならなくちゃ、そう強く思ったよ」

 テッドの父親の経営する会社が所有していた家屋が空いていたこともあり、作業場をそこへ移し、ボードづくりに気持ちを集中させた。場所は神田。二階建てだったおかげで、作業場を一階に置き二階で生活することもできる。目の前には公園もあり、樹脂を固めたフォームを乾かすのにちょうどいい場所でもあった。

 そして、1966年春、いよいよTED SURFの商標をとり、神田のその場所に、有限会社テッド・サーフボードを設立。本格的にビジネスとしてボード作りをスタートさせたのである。

 試行錯誤を繰り返しながらもボードの精度を徐々に上げていったテッドは、やがて大きな賭けにでる。友人の紹介ではあったが、日本橋高島屋の商品開発部を訪ねて、そこで自社のサーフボード20本の受注を受けることに成功する。

 「嬉しかったね。デパートで扱ってくれるというのだから。商品の信用も高くなくちゃ扱ってくれないよ。あわててボードを作ったわけよ。1ヶ月かかったか、全部納品できるまでに。カスタムオーダーしてくれるお客さんもいたしね。大切な顧客だってことで、高島屋の店員と一緒に、ボードを1本1本ダンボールで包み、その上から高島屋のトレードマークだったバラの包装紙で包んでね、それを配達するわけ」

 今のようにサーフショップがあるわけでもない。ボードを売る場所といえば、デパートか大手運動具店ぐらいしか思いつかない。しかし、小売業の世界にもそれなりの掟があり、問屋を通さずに、直接物売りのビジネスをすることはなかなか許される行為ではなかった。テッドが高島屋でボードを販売できたことはまさに奇跡。物売りのルールを知らなかったが故に掴めた大きな幸運だった。

 デパートの包装紙に包まれたサーフボードには、1本45,000円、カスタムオーダー品は50,000円の値札がつけられていた。

 デパートと言えば、日本ではじめてサーフボードが売られたのもデパートだった。1962年に池袋西武百貨店がカリフォルニアから輸入したハンセン・サーフボードで、本数はたったの7本。1本123,000円という一般の人には手の届かない、目が飛び出るような金額がついていた。もはや販売目的というよりも客寄せの宣伝目的で輸入されたのだろうが、スポーツ用品売り場に立てかけられたそれら7本のサーフボードはあっという間に売れてなくなった。

接着剤を塗ってフォームとフォームを重ねてゴムバンドで固定し、屋外で乾燥させる。作業はすべて手作業で行われた。
手作りで始めたボード作り。仲間と一緒にボード第一号のテストライドに出かけた。
1966年春、TED SURF SHOPを神田末広町にオープンさせた。
神田工場前の芳林公園も作業場として活用。
悪臭とガスと騒音。周囲の住人たちの理解が得られず、工場をやむなく神田末広町から南千住へ。牛の屠殺場の近く近くにあり問題は解消された。
家族総出で殺到したボードオーダーに対応した。単身でカリフォルニアに渡り技術を習得した妻、百合子が仕上げるピンストライプは絶品だった。


>> サーフィンという最高のアメリカン・カルチャーを運んで来た男 後編へ >>

ページのトップへ戻る