自称「ちっとも大人にならない」オヤジ。
19歳のころからその生き方のスタンスは変わらない

紀藤 雅彦


アメリカへの憧れ

 1950年代後半から60年代にかけて、アメリカへ強い憧れを持った多くの若者が、アメリカの地へと足を踏み入れた。今のように旅行会社やパックツアーがあるわけもない。渡米する方法を各々が見つけ出し、本物のアメリカを見てみたいという思いをモチベーションとした、直感的な冒険旅行だった。

 その切っ掛けを作ったのは、間違いなく1953年に日本で開始されたテレビ放映であり、間もなくスタートしたアメリカのテレビ番組だろう。それまでは、下駄履きでトンボを追いかけて遊んでいた子どもたちは、家に帰れば、ラジオの「少年探偵団」に耳を傾け、漫画雑誌誌「冒険王」に出てくる登場人物に心踊らせていた。そんな素朴な毎日だった。

 そんな日常に、アメリカの西部劇やホームドラマがいきなり登場し、日本の家庭にアメリカ的生活様式が飛び込んできたのである。子供たちはテレビに夢中になった。

 ドラマの中で、キッチンに据えられたでかい冷蔵庫の中には、いつでも大きなミルク瓶があって、ミートパイやチキンがオーブンで焼かれて出てくる。ハイヒールを履いた金髪のママに少年たちの心は奪われた。大きな車にスイッチひとつで自動的に空くガレージ。すべてが夢のような光景。その明るく、豊かで魅力的な生活様式を実際に自分の目で確かめたくて、やがて、大きくなった少年たちがアメリカを目指したのだ。

「オレの場合はさ、目的があったんだよね」

 水平思考ってわかる? オレの生き方であり、オレのやり方かな。

 唐突な問いかけ、「水平思考」の意味への返答に戸惑った。

 水平思考。その言葉を辞書でひくと、そこには、「問題解決のために既成の理論や概念にとらわれずアイデアを生み出す方法である」と記されている。平たく言ってしまえば、あれこれと理屈や言い訳を考える前に、やりたいという目標を見つけ、それに向ってただ、突っ走る、つまり直感的な発想だ。自分の関心のある分野だけに目線を置き、発想を広げていく考え方だ。

「オレの目的はひとつ。サーフショップをやりたい、それだけ。何がしたい?19歳のとき、自分に問いかけた質問に出た答えが、“サーフショップを経営して生計を建てたい”だったんだ。“オッケー、じゃ、そうしよう”そのとき、そう決心したんだ」

 当時は、大学を卒業したら就職という、誰もが決まったコースを歩んでいた。高度経済成長期の真っただ中だ。いい大学を卒業して、いい会社に就職して、大勢の中でまじめにコツコツと働くこと。それがよしとされ、それを目指さないと社会の脱落者と見なされる、そんな風潮があった。

「そうした、型にはまった生き方は、どうも性に合わなかった。このまま普通に生活して、普通にサラリーマンやって、普通に結婚して…そんなの嫌でさ。たとえ金に苦労しても、サーフショップやっても、オレ一代くらいなんとかなるだろうって、そういう強い思いがあったね」

やんちゃな幼少時代

 紀藤は1947年、裕福な家に男3人兄弟の次男坊として生まれた。東京は大田区。親父が工場を経営していて、お袋は古くから続く有名幼稚園の園長をしていた。とりわけ落ち着かない子供だった紀藤にとって、なおさら厳しい母だった。リビングのテーブルで、そわそわと落ち着かない態度で座っていると、ちょうど賀状を書いていた母から、毛筆ペンが紀藤の頭めがけて飛んできたこともあった。

 家に遊びにきた親戚のおばさんと母親の会話を、あるとき盗み聞いたことがある。紀藤が6歳のとき、ちょうど中学入試を控えた思春期前の頃だ。

「マサヒコは頭が悪いから、日大三中あたりがちょうどいいんじゃない」。

 当時、東京タワーの近くに芝中学校があった。麻布、開成、芝といえば、東京でも有名な進学校であり、紀藤の兄貴も、芝中学校へ通っていた。母親が有名幼稚園の園長ということもあり、周囲では紀藤家の子供たちはそうした進学校へ進学していくものだと勝手に信じていた。

 だが、紀藤は、親たちが会話していた日大三中にも落ちた。実際、進学とかそういう型にはまったものに興味なかったし、サラリーマンになって普通の人生を歩みたくない男にとっては、そもそも進学なんてどうでもよかった。

「中学も、高校もだけど、ひとりだったね。無邪気にはしゃいで遊んでいる奴らがさ、どうも幼く思えて、そんな奴らとつるみたくなくなっちゃってさ。“オレはいいよ、お前たちとは組みたくない”そんな感じだった」

 小さい頃から大人びたものの考え方をする傾向が紀藤にはあった。

 幼稚園は兄貴が次いで、下のふたりは好きな事をやっていけばいい、と、絶えず言われ続けてきた。それが、紀藤に自由奔放なものの考え方を育ませた原因のひとつにあったのかもしれない。

「授業中も外ばかりみていて、車なんかが通ると、それに反応してたね。ワーゲンだよ、ワーゲンとか大声上げたりしてね。新しいもんとか、何か目に入る物があると、すぐに反応してたね。昆虫なんかも興味あったし、解剖とか大好きだったよ。コウモリなんかも足を広げたり、蜻蛉なんかは穴からマッチ棒突っ込んでまっすぐに変形させたりとかね…いろんなことに興味あったというか、バカだったよ、オレは」

 人と違うところばかりが目立ってしまって、不良と思われることもあった。でも、本人は気にしない。通信簿にはただ一言、「もう少し落ち着いて、勉強しましょう」とだけあったという。

 いろいろなことに興味があっただけで、悪気はない。物へのこだわりも強かった。

「洋服とはか大事にしたよ。巡り会ったんだから、長くつき合いたいとい意識がどこかにあったし、ジーンズなんかも、自分で修繕しながらずっと履いてたしね」

 後に、サーフショップを経営する傍ら、米国で、ジーンズや、アロハシャツ、ネクタイなどのコレクターとしても有名となる彼の人生は、すでに子供のときに覚えた胸のときめきと、ひとつのことに夢中になれる心楽しい時間を知ってきたからに違いない。

渡米計画

 サーフショップをオープンさせる。そのためにどうすればいいか。その答えが渡米だった。実は、紀藤には一度、新卒で、貿易会社に入社した経験がある。しかし、わずか12日間でそこをやめた。海外への憧れがあって貿易ビジネスという選択をしてはみたものの、営業部に所属されたことを理由に、即決した。紀藤の決断は早い。貿易会社を退社した紀藤の心は、渡米へと向きだしていた。

 紀藤がアメリカへ行く理由は、サーフショップを経営することだったが、実際、彼がアメリカへの強い憧れを感じはじめた原点は、子供のころから聞いていたFENという米軍基地にいるアメリカ兵向けに放送されていたラジオ番組だった。映画「アメリカングラフィティ」にも登場したウルフマンジャックの濁声DJとともに、流れる音楽にいつも耳を傾けていた。

「テレビが家に入るまでは、ずっとラジオを聞いて育ってきたから、オレの思考回路なんかもラジオを聞くことで形成されちゃったんじゃないかなと思うよ。黒柳徹子の「ヤン坊、ニン坊、トン坊」の3人の兄弟の話なんか聞きながら、自分たちも3人兄弟だったから、イマジネーションを膨らませて、聞いてたよね、それが楽しくってね」

 NHKラジオ第一で当時、流れていた人気ラジオドラマだ。そのラジオから流れてくるストーリーを、自分の頭の中で勝手にイメージを広げ、自由に妄想する楽しみ方。まさにその妄想力が、紀藤の原動力とも言える水平思考なのかもしれない。論理思考、分析能力といった人工知能が代替できる能力ではなく、もっと自由で発散的な能力だ。

 やがて、テレビに映し出された西部劇「ガンスモーク」やドラマ「ビーバーちゃん」に登場するアメリカドラマの風景が、脳裏に焼き付き離れなくなっていく。いつかはここに住みたい。得意の妄想力も加わり、いつしかアメリカへの思いを強くしていった。

 アメリカに最も近かった存在といえば、横田基地。その施設内にあるホテル「ニューアサヒ」を尋ね、英語を覚えたいということを理由に働かせてもらえないかと、頼み込んでみた。狙った通り、紀藤はそこで働くことになる。

 度胸と素早い行動力が紀藤の魅力である。

 米軍敷地内に位置するそのホテルは、当時、パンナムのフライトアテンダントやパイロットたちクルーが常宿としていたホテルだった。そうした人たちと親しくなることで、渡米チャンスがきっとある。紀藤の頭にはそういう計算があった。

目的への第一歩

 やがてホテルをやめ紀藤は、思惑通り、ホテルで知り合いとなったジミー・ジェイソンの家を訪ねて渡米した。1969年のことである。ジミーはサンフランシスコで小学校の教諭をしていたが、実際は、彼の両親の家で滞在させてもらい、近くのアダルト・スクールへと通った。英語を勉強する毎日が、それからおよそ7〜8ヶ月間続いた。

「英語がうまく話せないこともあったけど、夜中にお腹とか空くとこっそりキッチンに行って、ピーナッツバターとジャムのサンドイッチ作って食べたりしたね。でも、すべてがカルチャーショックだったけど、憧れのアメリカにいるって感動は凄かったね、学校も楽しかったし」

 もちろん、英語の勉強で渡米したわけではない。好きなサーフィンを本場で楽しみながら本場のサーフシーンを肌で感じることが大きな目的だった。

 もっぱら、紀藤はサンタクルーズの海へ通った。あるとき、サンタクルーズで安いホテルを探しているとき、近くにfor saleのサインを出した車を止めていたサーファーらしき人に近づいた。サーファーならば安いホテルをきっと知っているに違いない。たどたどしくも英語で「近くに安いホテルはないか」と聞いた。紀藤の声をかけたその相手こそ、後に「サーファーズイア」というサーファー特有の耳の障害治療で世界的に有名となる医師であり地元サーファーであるDr. Scottだった。誘われるまま、Steamer Laneのポイント近くの彼の家に行き、そこで紀藤は、多くの有名なサーファーたちにも出会うことになる。

 地元でウエットスーツを開発していたジャック・オニールらに会ったのも、Dr. Scottとの出会いのお陰だった。無計画ながら海を渡った紀藤だったが、知らず知らずのうちにサーフィンの業界の人間たちに近づき、無意識なうちに信頼関係を深めていったのである。

鵠沼海岸で出会ったサーフィン

 紀藤がサーフィンと出会ったのは、鵠沼海岸だった。大学在学中に海岸で監視員をやっていたこともあり、湘南にはよく出かけていた。そんなあるとき、砂浜にビーチパラソルを立て、4本ぐらいのボードを並べていた外人たちと知り合ったのが始まりだった。

「金縁のレイバンかけて、決まってるわけよ、奴らの格好が。当時はみんな同じだったと思うけど、やっぱり座間ベースの外人たちが遊びに来てて、そのサーフィンやってる姿とか見て、サーフィンのこと知ったと思う」

 英語をしゃべれなかった紀藤も、さすがに、目に飛び込んだボードを操って遊ぶ彼らに興味を持ち、居ても立ってもいられず、その外人たちのところへ近寄り、図々しくもサーフィンをやらせてもらった。

 「21歳頃、浅草に住んでいた従兄弟がボードを持っているってんで、それを借りて、千葉の太東ビーチとか行った記憶があるよ。そのあと、そのボードを返さないでキープしちゃってね、たしかダックスのボードだったと思うよ」

 まだサーフショップなどもなく、ボードの作り方すらわからない。誰しもが手探りでサーフボード作りを試み始めた頃である。そんなサーフィン黎明期時代に育ったボードメーカーのひとつに、高橋太郎氏の率いるダックス・サーフボードというのがあった。その工場が東京の大山にあり、高橋太郎さんの叔父さんがそこをやっていた。

 サーフィンにどんどんはまっていくうちに、自分でなんでもやりたくなっていくのが紀藤の性分でもある。ボードを自分で作ってみよう。海で知り合いとなったアメリカ人からタダで譲ってもらったノーズの折れた古いサーフボードをもらい受けると、紀藤はそのコーティング樹脂を全て剥がし、シェープし直し、新しいサーフボードに作り上げた。

 母親にも手伝ってもらって、オリジナルのウエットスーツを製作したこともある。知識などあるわけもなく、そのほとんどが、輸入雑誌を扱っていた銀座のイエナ書店で購入した米国「サーファー」誌から盗み見たものだった。友人らと金を出し合って買い、回し読みしながらボードについて研究を重ねていった。その頃、仲間だった連中は、今もサーフィン関連の仕事をしている。

 そうしたボード製造への情熱もあわせ、毎週日曜日には海へと出かけ、サーフィンを楽しむ一方、古いサーフボードを抱えた人のところへ行っては、「板作らない?」って、ショップをオープンする前から営業してはじめていたという。それもまた紀藤らしい。

The Surf始動

 米国から帰国した紀藤は、夢だったサーフショップを71年、大田区の蒲田に出した。The Surfの誕生である。サーフショップとは言っても、カリフォルニアから持ち帰ったオニールのTシャツやトランクスが目玉商品。それと、手づくりのサーフボードが数本並べられただけだった。それじゃ、商売にならない。そこで、カウンターでコーヒーが1杯130円で飲めるカフェを、紀藤は始めた。

「サーフボードが飾ってある喫茶店っていう感じかな? でも、近くの証券会社の人とかサラリーマンがよく来てくれたんだよね。その人たちがさ、オレのことに興味を持ってくれてね。ひとりで海外からモノを輸入してきて、暇なときにはタイプライターとかで何か打っているってね。ただの色黒のサーファー兄ちゃんとは違って、勉強してるんだ…って、今思えば、笑っちゃうけどね」

 もっと多くの人にサーフィンを知ってもらい、それをライススタイルとして取り入れてもらおうと考えた紀藤は、再度、単身、カリフォルニアへと戻った。

 そして、サーフボードを筆頭にサーフィン用品やウエア、カリフォルニアングッズを仕入れるために頻繁にアメリカと日本を往復するライフスタイルが生まれていった。やがて、もっといいモノを、もっと多くの情報をカリフォルニアから仕入れたいと、81年には、家族でカリフォルニア、ハンティントンビーチに拠点を移し、米国で開催されるサーフィンのコンテストをまわっては、その様子を8㎜フィルムの映像、写真などで記録していくのである。その映像は、すぐに日本のショップ“The Surf”に集まるお客さんのために送られ、上映されていった。

 ハンティントンビーチは70年代、カリフォルニアでも有数のSurf Townとして知られ、現在でも、世界ツアーが開催されるカリフォルニアを代表するSurf Pointして人気を誇る。

 米国に移住してからの、紀藤は様々な商品を日本へ送った。商品が梱包された箱にはまさに自由の空気と夢がぎっしりと詰まっていた。Katinトランクス, O’Neillウエットスーツ, Vansシューズなどはその代表ブランドである。地元に住んでいるからこそのメリットも大きかった。アル・メリックという80年代に世界的にも高い人気を誇っていたカリフォルニア・ボード・ブランドの国内での販売権利をいち早く取得し、さらにLevi’sジーンズ、スケードボード、古着と数々の商品をCalifornian beach breezeとともに日本へ送り届けた。その結果、The Surfは、最先端のカリフォルニア・カルチャーの発信基地として人気を博し、80年代後半には、蒲田に5階立てのサーフショップへと成長させるまでとなった。さらに、カリフォルニアのNewport Beachに直営店をオープンさせた。

 一方、日本からカリフォルニアにやってくる多くのサーファーやカメラマンたちにカリフォルニアでの活動チャンスを与え、常にエ−ルを送り続けてきた。糟谷修自、西井浩治、今村大介、多くの国内トップ・プロ・サーファーたちをスポンサードしながら育ててきた。世界中の波を追い求めるサーファーたちの雄姿をファインダーに捉え続けているサーフィン&オーシャン・カメラマン、神尾光輝がカメラマンとしての道を歩み始めたのも、そもそも紀藤の助言があったからだ。地元サーファー、ダン・フレッキーの紹介で、トミー・カレンという80年代、ワールドチャンピオンの栄冠を4年間続けて手中に収めてスーパースターとなった若手サーファーのバックアップもやってきた。今でも親交を深め、トミーとは切っても切れない深い絆で結ばれている。

TOM & I

 紀藤は、今年、69歳を迎えた。彼の言葉を使うならば、「まだね、69歳」である。

「嫌な老人じゃなくて、かわいい老人を目指したいじゃない」。

 家に集まってきた12匹のネコの世話から一日がはじまる。ネコのおしっこやゴミの片付け。

「なにかの縁があって、オレのところにやってきたんだ。だから、嫌なことだったとしても、ニコニコやればいいんだよ」。

「一日のうちに、心配ごととか考えることあるよね、不安な気持ちとかネガティブなことを考えないようにすることは、とても難しいことなんだ。だから、ハッピーになるように踊る。どこにいても好きな事やモノが、心の目で見えるようにして嬉しい気持ちを意識的に持ち上げたりしてるんだ」

 80年代、カリフォルニアのライフスタイルを若者カルチャーとして日本へ送り続けてきた人生。直感的な判断と、瞬発的な行動力で興味あるものについて走る抜けた体当たり人生だった。

「実はさ、ここ4年ほど、サーフィンを一切やっていないんだ。そろそろやろうかな」

 紀藤は、この4年間、自分自身の生き方の整理を行ってきた。東京にあったショップを売却し、コンパクトなショップとして再スタートさせた。そして自分の人生の集大成であるトミー・カレンと一緒に歩んできた人生、彼のサーフィンシーンを記録したドキュメンタリー映画「Tom and I」の製作に、今、すべてを集中させている。

「何かをやるためには何かを我慢する」この行為は、昔から紀藤がとってきた気構えであり、目的へ向けての行動のケジメであり、そして成功へのジンクスであった。

 水平思考。その言葉がどんなときも紀藤の原動力なり、今なお、彼にアグレッシブな生き方を導いている。

「そろそろサーフィンをやろうかな」という言葉の裏には、「Tom and I」がもうすぐ完成することを意味している。

(文中敬称略)2016年7月

Text_吉田文平

学生時代に仲間たちと鵠沼海岸で。左から2番目が本人。

母親が園長を務める幼稚園前で。自分で制作したボードとともに撮影。

鎌田にオープンしたTHE SURF の前で。看板にはSURF & COFFEEと書かれてある。

76年にマジックマウンテンで開催されたスケートボード世界選手権に秋山弘宜(左)とともにチームマネージャーとして参戦した

ケーティントランクスのオーナーだったMrs. Katin(中央右)と Mrs.Sato(中央左)。左は秋山弘宜。

ハンティントンビーチのスーパースター、デビッド・ヌヒワとくつろぐ。

KATIN TRANKSの雑誌広告に掲載された(一番左端)。

70年代のハンティントンビーチの風景。PCH沿いにあるJACKS SURFBOARDS のショップは今でも変わらず残っている。

米国Surfer誌に掲載した日本のショップTHE SURFの広告。住所や取扱商品が日本語が書かれてある。

日本Surfing World誌に掲載した広告写真。Mrs. Katinと一緒に。

ダックスの故高橋太郎氏より送られてきた手紙。

紀藤雅彦(きとう・まさひこ)

1944年生まれ。THE SURF(クラシック・サーフィン社)代表取締役。日本でのショップ展開とともに、カリフォルニア・オレンジカウンティーでサーフボード製造会社を経営。米国よりサーフボード、ウエットスーツなどの輸出をはじめる。かつては古着、アンティークなどアメリカン雑貨、服飾の輸出も手掛けてきた。1981年に拠点をカリフォルニアハンティントンビーチへ移しやがて永住権を獲得。多くの日本人トップ・サーファーの現地での面倒などをみてきたことから彼らの「永遠の親父」でもある。

“THE SURF”SURF SHOP
http://www.thesurf.co.jp/