行き当たりばったりの人生、それもまた良し。
サーフィンという最高のアメリカン・カルチャーを運んで来た男

テッドインターナショナル 阿出川 輝雄

日本のサーフィン史を綴った記事には必ず、その名前はある。テッド阿出川。1960年代初頭、憧れだったアメリカに単身で渡り、日本では、まだあまり知られていなかったサーフィンの虜となり、1966年に東京・神田でサーフボードの製造を始めた男。ボード作りのノウハウを本場からいち早く持ち帰り、サーフボードメーカーの草分け的存在として日本におけるサーフィンの発展に貢献するとともに、70年代、日本を席巻したアメリカブームの火付け役となったことで知られている。


憧れのアメリカンライフ

「TERUOじゃ呼びにくいから、TEDでいいわね?」

 1日3食付で、月にわずか75ドルという好条件で利用できる長期滞在者向けの宿泊施設「クラタボーディングハウス」で生活をしていた阿出川輝雄は、そこの女将からそのニックネームをもらった。親しみを込めて、誰しもが、彼のことを呼ぶことのできる響きのよい呼び名「テッド」だ。

 1964年、1ドルの換金レートが360円の時代、大学3年だった阿出川輝雄が、憧れていた米国に単身乗り込んだときのことである。外貨持ち出し規制も厳しく、日本から持っていける上限はたったの500ドル。長期滞在をしたければ自分で働いてお金を作るしかない。

 しかし、渡米に際して輝雄は外務省の担当者から3つの厳守事項を聞かされていた。

「2週間以内に帰国すること。滞在中に仕事はしないこと。アメリカ人女性と結婚はしないこと」

 東京オリンピック開催を期に、海外観光渡航の自由化が始まったばかり。年に1人1回きり、持ち出し金額にも制限のある時代ゆえに設けられた渡米に関する厳しいルールである。しかし、ようやく夢が叶ってアメリカに飛び出そうとする男の耳に、そんなこと入るわけもない。

 果たして、入国して間もないうちにテッドは庭師として仕事を始めていた。手が器用だったこともあり、庭師の仕事をみっちりと1週間も叩き込まれれば十分、仕事の要領もすぐに身についた。日系二世をはじめ米国移住組の日本人先輩が大勢いるなか、あっという間に、一日、25ドルを稼ぎ出せるほどの技術を磨いたのである。

「なんたって、たったの500ドルだからね、10日も生活すればなくなっちゃうよ。アメリカ人の家を一日に何件も巡り、庭の芝を刈ったり、刈った草や落ち葉を掃除したりときつい仕事だったけど、お金になったからね」

 お金も欲しかったが、それ以上に米国での滞在時間が欲しかった。地元日系人の紹介で、庭師の仕事をすれば滞在期間の延長申請が認められる。そのことを知ったテッドは迷わず庭師の仕事を引き受けたのである。

 当初、週に3日間の契約で始めた庭師の仕事は、徐々にその日数が増えていった。日本では大卒の初任給が10,000円にも満たない時代。数日働けば、そのぐらいの金はすぐに稼げた。

 当時、庭師の仕事は日系人の言わば専売特許。日本人の器用さと真面目さが叶えた独占的稼業だった。仕事は朝早くからはじまり、1日に6〜8件、多いときには10件もの米国人のセレブ家庭を訪問し、そこの庭や玄関先を綺麗にするハードな仕事だった。だが、捉え方によっては米国のお金持ちの家々を訪れ、アメリカ人のライフスタイルを直に触れることのできる貴重な時間とも言える。後にテッドがはじめる文化や遊びをアメリカから運んでくる仕事の切っ掛けは、実は、アメリカンライフを肌で感じることのできた庭師の仕事を経験したことにあったのかもしれない。

 昼間は庭師としての仕事をしながら、夜はアダルトスクールで語学の勉強に励むといったテッドのアメリカでの生活は、瞬く間に過ぎていく。

「ドライブスルーのあるマクドナルドなんかも新鮮だったし、それまで白黒画面でしか見たことがなかったようなアメリカのドラマのなかに、飛び込んだような、そんな感じがしてさ….とにかく明るくて、眩しかったよ」

 見るものすべてが珍しく、目に飛び込む光景が眩しくさえ思える。強い好奇心と人懐っこいおおらかな性格。その人柄も相まって、アメリカの風土にテッドはすんなりと馴染んでいった。

サーフィンとの出会い

 仕事場は、日本人タウンとして知られているガーデナーという街だったが、住んでいたのは、そこから車で30分ほど北西へ行ったサンタモニカ。車を持っていなかったこともあり、仕事場との往復は、いつも仕事仲間に乗せてもらった。早朝から始まった庭師の仕事は、陽の高いうちに終わり、家の前で車を降ろされると、午後の退屈な時間を近所のホットドックスタンドで過ごすようになっていく。やがてそこでアルバイとして働くひとりのサーファーと親しくなった。

 仕事にも慣れ、経済的にも余裕が出てきて、そろそろもっと刺激的なことをしたいと、思い始めていたそのタイミングだった。

「今度の土曜に海に行かない」

 久しぶりにホットドックスタンドに顔を出したテッドは、親しくなったアレンから、そう誘われた。

「奴の車のなかにはがあってね、針が下から出ているプレーヤー。車の中でレコードを聞きながら海まで行くのだから….たまげたね、とにかく格好よかったよ」

 さらに、海に行ってテッドは驚いた。サーフボードを抱えた多くの若者たちが賑やかに歩いている。ハワイのような大きな波でのサーフィンは知っていた。だからサーフィンは特別なものだという先入観があった。しかし、今、目にしているのは、日本のビーチサイドとも似た砂浜を、若いサーファーたちが楽しそうに歩いている姿だ。

 これだ!テッドは直感した。

「これならば、日本でもできる!」

「庭師の仕事をしに米国に来たわけじゃない。サーフィンを日本に持ちかえって、これを仕事にしてみたい」

 その後、毎週末をアレンと海で過ごすようになったテッドは、サーフィンにのめり込んでいった。来る日来る日もサーフィンのことばかり考え、同時に、日本でそれをビジネスとする夢もどんどん膨らんでいく。アレンとともにサーフショップへ何度も通い、サーフボードの製造方法を見て学んでいった。

手探りで始まったサーフボードづくり

 移民局からビザ延長の許可をもらっていたとはいえ、出国の際に外務省から言い渡された2週間という滞在期間からすでに3ヶ月もオーバーステイをして、ようやくテッドは帰国した。

 帰国後すぐにでもサーフボードづくりをスタートさせたかったが、始めようにも日本ではボードを作るための材料も道具もない。さらに言ってしまえばシェイプの知識だってないのである。

 ただ、カリフォルニアで遊んだボードの記憶と、サーフショップ裏の作業場で見たボード作りの光景を頼りに、ボードを作り始めるしかなかった。

「とにかく、材料もないしね、まずは、胴体の内部を支えるキールにベニア板を張り付け、その上にガラス繊維を巻き付け、ポリエステル樹脂をコーティングして作ってみたわけさ」

 後に奥さんとなる百合子のお兄さんがヤマハのモーターボート関連の仕事をしており、FRP(繊維強化プラスチック)の知識があったことにも助けられた。材料のポリエステル樹脂を手にいれることもできたのもまた、お兄さんのおかげだった。あれこれと試行錯誤の末、サーフボード第一作目は完成した。アメリカで見たものとは少し違う形ではあったが、耐水性もあり、海で充分に遊べる代物だった。

 実はその頃、日本でもボード作りに興味を持ち、テッドと同様に独学でサーフボード作りをはじめていたパイオニアたちが何人かいた。しかし、誰一人として、ボードの作り方を正しく理解していたわけではない。製造マニュアルがあるわけでもなく、海外から持ち込まれた雑誌に出ているサーフボードの写真を見ながら想像するか、日本に持ち込まれたボードを見て研究するしか方法はなかった。

 そのうちのひとり、東京の北千住でボード作りをしていたのがダックス・サーフボードのだ。

「川向こうにサーフボードを本格的に作っている人がいるらしいよ、と、兄貴から教えてもらい、自分と同じことを考えている人が近くにいることがわかったら、居ても立ってもいられなくてね」

 テッドは早速、高橋のもとを訪ねた。自分もサーフボードを作りたいことを高橋に伝えると、「日本にも何社かあってもいいよな、一緒に頑張ろう」と、嫌な顔ひとつされることなく迎えられたという。

 高橋は当時、アメリカのサーフィン雑誌を図書館に出向いて読みあさったり、葉山海岸で出会ったアメリカ人サーファーの持っていたボードを見ながら、ボードがウレタンでできていることをすでに突き止めていた。

 帰り際、テッドはウレタンフォームを高橋から貰い受けた。エールのみならず、ウレタンまで手に入れたテッドは、そのときボードづくりへの意思をあらためて強くした。

サーフボード製造事業のスタート

 作業は、南千住にあった百合子の家のひと部屋を借りて行われた。近くの材木屋から購入してきた10尺(約3m)の杉板を、サーフボードの反り上がった形状にノコギリで切り、それをボードの芯(ストリンガー)として、サイズ150㎝×30㎝、厚さ1.5㎝の硬質ウレタンフォーム2枚ずつ左右に並べて樹脂で固める。樹脂は、硬化剤を混ぜることで固まるが、その速度は気温や湿度によって異なり、暑い日などには手際よく張り付ける必要があった。杉板とフォームを合わせ、それを自転車用のゴムバンドで巻いて固定し、樹脂が固まるのを待つ。均等の圧をボード全体にかけないといけない。さもなければ、芯となる杉板が歪んでしまい、ボードの形状はおかしな物となる。

 翌日、固まった4枚のフォームに、画用紙をつなぎ合わせたテンプレートを置き、鉛筆でアウトラインをなぞり、その線にそってノコギリで切り落とす。続けて、杉板のカーブに沿ってボードのボトム部分を、これまたノコギリで削いでいく。大工用カンナなどいろいろと試してみたが、最終的に、氷を切るノコギリを利用するのが一番具合よかった。 

 ボード製造は、基本的に現在でも手づくりで行われているが、今のように豊富な道具があったわけではない。金物屋で出かけては、利用できそうな道具を探し、使いやすそうな道具を見つけてはそれを使用した。削り粉や樹脂の悪臭の問題もあり、結局、ほとんどの作業は屋外でやることになった。

 その頃、日本にあったフォームといえば日清紡で冷凍車用の断熱材として開発された畳ぐらいの大きさの発砲スチロール材ぐらいしかなかったが、やがて、建材用のウレタンフォームを東洋ゴムが開発し、それを仕入れることもできるようになり、作業も大幅に楽になっていった。さらに義理の兄貴のつながりで、大日本インキから250番手のガラスクロス、8010番のポリエステル樹脂、コバルト硬化剤といった材料も入手でき、テッドサーフも、徐々にボードメーカーとしての体を成していったのである。

デパートでサーフボードが売られた時代

 しかし、1本のボードを削るのに費やされる時間は4日間。しかも、バルサ材などを用いて別途仕上げてあったフィンを、ボードに装着する作業がそれに加わり、ようやく1本のボードは完成する。ビジネスとするにはあまりにも手間がかかりすぎた。

「とにかく最初は大変だったよ。ボードもそんなに数が作れないし、本当にうまくいくか心配だったしね。万が一、失敗した場合に家業を継げるようプリントネクタイの会社で営業マンとして働いたこともあったよ」

 ボードづくりの傍ら、テッドは、ネクタイを鞄いっぱいにつめて銀座や日本橋のデパートや小売店を歩き回った。一所懸命働いても月給はたかだか3万円にも満たない。

「何が嫌だって、その姿を友達に見られたくなかったよね。なんとしてもサーフボードを成功させ、生計が建てられるようにならなくちゃ、そう強く思ったよ」

 テッドの父親の経営する会社が所有していた家屋が空いていたこともあり、作業場をそこへ移し、ボードづくりに気持ちを集中させた。場所は神田。二階建てだったおかげで、作業場を一階に置き二階で生活することもできる。目の前には公園もあり、樹脂を固めたフォームを乾かすのにちょうどいい場所でもあった。

 そして、1966年春、いよいよTED SURFの商標をとり、神田のその場所に、有限会社テッド・サーフボードを設立。本格的にビジネスとしてボード作りをスタートさせたのである。

 試行錯誤を繰り返しながらもボードの精度を徐々に上げていったテッドは、やがて大きな賭けにでる。友人の紹介ではあったが、日本橋高島屋の商品開発部を訪ねて、そこで自社のサーフボード20本の受注を受けることに成功する。

「嬉しかったね。デパートで扱ってくれるというのだから。商品の信用も高くなくちゃ扱ってくれないよ。あわててボードを作ったわけよ。1ヶ月かかったかな、全部納品できるまでに。カスタムオーダーしてくれるお客さんもいたしね。大切な顧客だってことで、高島屋の店員と一緒に、ボードを1本1本ダンボールで包み、その上から高島屋のトレードマークだったバラの包装紙で包んでね、それを配達するわけ」

 今のようにサーフショップがあるわけでもない。ボードを売る場所といえば、デパートか大手運動具店ぐらいしか思いつかない。しかし、小売業の世界にもそれなりの掟があり、問屋を通さずに、直接物売りのビジネスをすることはなかなか許される行為ではなかった。テッドが高島屋でボードを販売できたことはまさに奇跡。物売りのルールを知らなかったが故に掴めた大きな幸運だった。

 デパートの包装紙に包まれたサーフボードには、1本45,000円、カスタムオーダー品は50,000円の値札がつけられていた。

 デパートと言えば、日本ではじめてサーフボードが売られたのもデパートだった。1962年に池袋西武百貨店がカリフォルニアから輸入したハンセン・サーフボードで、本数はたったの7本。1本123,000円という一般の人には手の届かない、目が飛び出るような金額がついていた。もはや販売目的というよりも客寄せの宣伝目的で輸入されたのだろうが、スポーツ用品売り場に立てかけられたそれら7本のサーフボードはあっという間に売れてなくなった。

ボードメーカーの旗手として

 高島屋百貨店を皮切りに、やがて多くのデパートでテッドのボードが扱われるようになっていった。当時、最も力を入れて売ってくれたのが渋谷にあった緑屋というデパートだった。

 デパートでの展開が順調になると、次に、テッドはスポーツ専門店への交渉を試みた。スキー選手だった学生時代によく通ったことのあったミナミスポーツに出かけて行き、ボードを扱ってもらえるよう説得したのである。スポーツ専門店での扱いを可能とさせたことによるメリットはとても大きかった。スポーツ用品の展示会でサーフボードを展示する機会に恵まれたことは、TED ロゴの入ったサーフボードを多くの人の目に触れさせるためにも効果的で、TED SURFの名前は瞬く間に世間に広まっていった。

 ボードの噂を聞きつけ、日本中からボードのオーダーが舞い込んでくる一方、ボードシェイプを学びに多くのサーファーたちも集まってきた。

 今ではサーフィン界の「レジェンド」と呼ばれている人たち、当時はまだ高校生ぐらいだった少年たちが、テッドのところにボードづくりを教えてほしいと、やってきていた。といったメンバーを筆頭に、らも、ボードを作りたくて集まっていた。

「ボード作りを手伝ってもらってもろくに支払いもできないじゃない、せめてもと一升だきの大釜を買って、それで皆に食事を振るまったりしてね、賑やかだったよ」

 日本におけるサーフボード製造の黎明期でもあり、情熱あるよき時代であった。ウレタンフォームも、長さ、幅を同じスケールとした製品を独自に開発し、サーフボードの量産化も可能となりはじめていた。

「ワーゲンショップ“フラット4”の小森隆さんがボードを買いに神田のお店にわざわざ来てくれたよね、その頃。あと、ドンキーカルテットの小野やすしさんとかメンバー揃ってボードをオーダーしにきてくれたりもしてね、今思えばいろいろな有名人がボードを買いにきてくれたよ」

「格好のいい遊び」としてもてはやされ始めたサーフィンだったが、初期のボードは長く、重量もあったので泳力が必要だった。と同時に、ビーチまで行くための車も必要で、ボードを実際に購入していく人の多くは裕福な家に育った若者が中心だった。TED SURFのロゴの入ったボードを車に積んで海へ行くことは、モータリゼーションの発展と平行した形でひとつのステイタスとなり、ファッションにもアメリカ文化にも敏感な人たちが率先し、サーフィンの流行は広がりはじめていったのである。

 もっとも、サーフィンクラブなるものがすでにその頃、日本には存在していた。東京に高橋太郎率いる「ダックス」、湘南の鵠沼ではが「シャークス」を、大磯ではが「ビッグウェーバーズ」といったチームをそれぞれに結成していた。千葉の鴨川では、君塚房次郎が若手サーファーのらを引き連れ「鴨川ドロフィンズ」をまとめていた。どれも皆、自然派生的にほぼ同時期に生まれたものだったが、当時は、どっちが先にできたかを、真剣に競い合ったものだ。の記録によれば、当協会が主催した第二回全日本サーフィン選手権の開催された1967年には、すでに22チームものサーフィンクラブが登録されている。

 サーフボード作りのパイオニアとして活動していたシェイパーたちもそれぞれに活躍の場を広げていった。前出の西武百貨店が扱った7本のハンセン・サーフボードのうちの1本を購入したは、親しかった高橋太郎とともにダックス・サーフクラブの一員としてサーフィンを楽しみながら、西武百貨店との契約を結んだ。日系アメリカ人のとの連携でボードづくりを広げていった米沢プラスチックのも千葉のマリブ、勝浦周辺を中心にマリブ・サーフボードの展開を広げ、そして、多くのローカル・サーファーたちもまた、独自の方法でボードづくりにチャレンジしていったのである。

 一方、日本に駐在していた米兵サーファーなどの間でも、Ted Surfの噂は口コミで広がり、神田のショップへ続々と集まってきた。厚木米軍基地に勤める軍属であるスティーブ・ペーリンもそのひとり。後に日本のサーフシーンの記事を米国サーファー誌に寄稿したジャーナリストで、テッドは自分の車で湘南、静岡、千葉と日本のサーフポイントを連れて歩き取材に協力した。今はすでに無くなってしまった太東海岸の漁港奥にあった岩場のポイントを発見したのも、スティーブらとともに走り回っていたときのことだった。

 サーフィンをもっと多くの人にも広めたいという気持ちもあった。地方の海をサーフィンしながら巡ることは、自社ブランドを広めるためのプロモーション活動でもあったが、当時は、海で遊ぶという行為がまだ理解されていないエリアも多く、いろいろな意味で目立った存在となった。新聞社の取材を受けるはずが、「海での危ない遊びは駄目だ」と、地元の警察官にはとがめられ、取材記事もあまり好意的ではなく、印象の悪い内容となって掲載されてしまう時代だった。

サーフィン映画の製作

 学生時代に渡米したときのことが忘れられなかったテッドは、ボードづくりに追われる忙しい日々の合間を見つけ、再びカリフォルニアへと旅だった。

 スティーブの弟は、かつてテッドがたびたび訪れていたのチームライダーをしていたということもあり、スティーブとは近い間柄になっていた。その彼からの誘いもあってテッドは再び、カリフォルニアへと旅立つことを決めたのである。

 60年代終わりから70年代にかけては、サーフボード・デザインもロングからショートへと変化した移行期であり、プロ化も本格化し、賞金をかけたサーフィン・コンテストが各地で開催されていった。

 大きな大会へ行けば、必ずそこには世界中から、人気サーファーが集まっていた。そのうちのひとつ、ハワイのMakahaで開催されるという世界大会があり、サーフィンの雑誌にも記事や写真が載っていたのを見て、テッドはすぐにそこへ行きたくなった。

 そこでのサーフィンシーンを撮影してみたい。

 サーフィンの映画を作るというあらたな夢が芽生え、創作意欲にかりたてられていった。それもそのはず、映画製作はテッドにとって子どものころからの大きな夢でもあったのだ。

「サーフィンをもっと広めるためにも、本場のサーフィンシーンをやはり映像で撮って皆に見せたくなってね。アメ横へ来るついでに、ちょくちょく神田の店に顔を出してくれた大磯ビッグウエーバーズの石渡さんが著名なサーフィン・カメラマンでもあったクラレンス・マキさんというホノルルに住んでいる人を紹介してくれたんですよ」

 カリフォルニアに行く前に、そのマキさんを尋ねて、2週間ほどハワイに立ち寄った。

「サーフィンの映像を撮るためにハワイに来ましたって言ったら、マキさんが、サーフショップ、大会、パーティーなどへ俺を連れて行ってくれて、著名な人をいろいろと紹介してくれるわけ。マキさんは現地でもとても顔が利く人でね、会う人、会う人、すべてが有名なサーファーだったりと、豪華な顔ぶればかり…でも、みんな気持ちよく接してくれてね。サーフィンの大会がどうやって運営されているかなんていうことも聞けて、すごく勉強になったし、お世話になってしまい、今でも本当に感謝しています」

 マカハ・インターナショナルの会場で、テッドは、屈指のチャンピオンとして名を馳せた地元サーファーのやその息子のを筆頭に、の姉の、カリフォルニアのといったそうそうたる顔ぶれと知り合っている。

 また、映画「ファイブサマーストリーズ」を製作した、たちとも出会い、同じサーフィン映画を作る者同士として、親しくもなった。

 米国から戻ったテッドはその後も度々カリフォルニアとハワイへ渡り、撮影を続けた。彼の映画製作を意欲的にさせたのも、こうしたサーファーらとの親交があったからにほかならない。当時、Waikikiにあったサーフショップ「Surf Line」で店番をしていた幼かったレラ・サンとも親しくなり、彼女の家に滞在しながら映画撮影をしていたこともあった。

 カリフォルニアで、を製作したのもこの頃である。Hermosa Beachのローカルスターだったとひとつ屋根の下に寄宿する若手サーファーの日常を撮ったドキュメント映像。カリフォルニアのみならず日本、ハワイと各地の名ローカルサーファーのサーフィンを中心としたライフスタイルを捕らえた映像作品で、日本で初の16㎜サーフィン映画として知られている。

 映像制作を続けるとともに、当時流行していたファッションやグッズなどを次々と購入し日本へと持って帰ってきた。おかげで、本業のボードづくりとともに、ファッション、雑貨の輸入販売の仕事も忙しくなっていった。

 スケートボード、VANSシューズ、KETINトランクス、そして70年代にサーファーの間で大流行した小粒貝殻のネックレスのプカシェルといったさまざまなアイテムを日本に広めていくのである。

  テッドの元でボード作りを学んだサーファーたちも湘南に戻り、それぞれに活動をスタートさせていた。

 71年には、工場とショップを千葉に移し、さらにテッドの仕事は忙しくなっていく。テッドが米国から仕入れてきた雑貨、ウエアを求めて日本全国から千葉のショップへ人が集まり、物もあっという間に売れた。

アメリカ大流行時代へ

 1975年に「Made in USA」というカタログ雑誌が読売新聞社から発行され、続いて雑誌ポパイがマガジンハウスより1976年に創刊された。アメリカからのファッション、文化が紹介されるとともに、流行に敏感な若者たちは、こぞってアメリカ文化を追いかけ始めた時代であった。

 テッドは、カリフォルニアで見たもの、手にいれたものを片っ端から記事としてまとめ、その原稿は雑誌ポパイの連載コラムとして扱われた。

 撮影した映像は、テレビでも取り上げられ、サーフィン・コンテストの在り方を雑誌で紹介すれば、日本にプロ・サーフィンの大会が生まれるといった具合だった。

 プロのサーフィン組織化の必要性を感じていたゴッデスの、J.S.P.のらがテッドの元を訪れ、というプロ組織の立ち上げへの協力を求めてきたのである。

 そして79年には、コカコーラボトラーズが協賛となった国内で初めての国際大会を千葉の夷隅川河口で実現させている。

 若者たちのUSAトレンドを先行するかのように、サーフィンの人気はヒートアップし、テッドは若者文化の牽引役となっていくのである。

 カリフォルニアからマイク・パーパス、ハワイからはといったスター・サーファーを来日させ、日本のサーフィンブームを加速させたのもテッドの発想だったし、サーフィン奨学金制度という海外から学生サーファーを招き入れるユニークな企画を企てたりもした。

 事実、その数年後には有名なプロ・サーファーが次々に日本に招かれ、サーフィン雑誌などで取り上げられることで、サーフィンブームは破竹の勢いでさらなる広がりをみせていったのである。

 テッドの斬新なひらめきに導かれるかのように、日本のサーフィンは発展した。強い好奇心と自由奔放な行動力。サーフボードもトランクスも、ワックスもない時代。ないものは自分たちで作り出し、誰もがやらないことをまず自分たちが始めてみる。サーフボード製造も、またその販売も、海外からの輸入も、映画の製作もすべてが苦心独学で生まれた素晴らしき産物だった。

「サーフィン」と「遊び」が好きだったからこそガムシャラに動き、働き、無理もできた。決して平坦な道のりではなかった。わがままを言い、周囲の人たちにも心配をかけたときもあっただろう。紆余曲折の末、青春の蹉跌も嫌というほど味わってきた。しかし、そのテッドの自由で前向きな生き方が、今振り返ると、日本のサブカルチャーに偉大な功績を残してきたことに間違いはない。

(文中敬称略)

text:吉田 文平

『ただ、アメリカを見たいからと、親に頼み込んで渡米して以後、いきあたりばったりの人生を僕は歩んできた。しかしドタバタだろうと夢を見つけ、そこに向って進んできたことだけは自信を持っていえる。夢を見続ければ、最高のサーフィンライフを、楽しい人生を歩んでいけるかもしれない……と、毎日を過ごすサーファーが1人でも増えてくれてくれたなら、僕はハチャメチャな人生もまんざらではなかったのかなと思う。』
TED阿出川

初代テッドチームメンバーだった長尾君(写真中央)と矢吹君(写真右)と一緒に鵠沼海岸で記念撮影。

テッドサーフボードの歩みは多くのサーファーたちに夢をもたらすと同時に、日本のサーフィンの発展に寄与した。

写真はすべて下記の写真集「Honky Tonk Lifeテッドサーフ50年の歩み」に掲載されています。200点にもおよぶ当時の懐かしい様子を知ることのできる貴重な写真の数々。テッド阿出川氏のサーフボード作りの歩みとともに、70年代のカリフォルニアサーフィンカルチャー、半世紀にわたる日本のサーフィンの歴史を垣間見ることのできる貴重な一冊です。

> Be Good Boys Online Shopからもご購入いただけます。

1964年、テッドが大学3年生のとき、憧れだったカリフォルニアに始めて足を踏み入れた。目にするものすべてが新鮮で、眩しくさえ思えた。

庭師の仕事をもらい、白人上流家庭の家々を回りながらアメリカ文化を身につけていった。写真左は庭師の仕事をいろいろと教えたもらった鈴木先輩。

手作りで始めたボード作り。仲間と一緒にボード第一号のテストライドに出かけた。

66年春、TED SURF SHOPを神田末広町にオープンさせた。

伊豆白浜。すでに多くのサーフチームが日本中にできており、よく海岸で鉢合わせもした。

接着剤を塗ってフォームとフォームを重ねてゴムバンドで固定し、屋外で乾燥させる。作業はすべて手作業で行われた。

神田工場前の芳林公園も作業場として活用。

悪臭とガスと騒音。周囲の住人たちの理解が得られず、工場をやむなく神田末広町から南千住へ。牛の屠殺場の近く近くにあり問題は解消された。

家族総出で殺到したボードオーダーに対応した。単身でカリフォルニアに渡り技術を習得した妻、百合子が仕上げるピンストライプは絶品だった。

七里ケ浜で仲間たちと戯れる。写真中央はテッドのチームライダーとしても活躍した故・大野薫。写真右は阿部博。

ボードを作りたくて湘南からも多くのサーファーたちが集まっきた。写真左が井坂啓己、右が長沼一仁。

67年に勝浦マリブで開催された第二回全日本サーフィン選手権。22ものサーフクラブが参加した。

トロフィーを持つのがジュニアクラスで優勝をした「鴨川ドロフィンズ」の川井幹雄。

ベトナム戦争から戻った日本駐留の米兵が遊びに来てはボード作りの指導をしてくれた。写真手前はロン・クラーク、奥がデビッド・スワンソン。

68年、サーフィン映画を撮るためマカハインターナショナルの会場へと足を運んだテッド。右はコーキー・キャロル。

69年、カリフォルニアのレジェンド・サーファーのひとり、デューイ・ウエバーとDewey Weber Surf Shop前で。

ローラーサーフィンと呼ばれていた時代。95年には八王子サマーランドで大会をテッドが主催した。

2台のローラーサーフィンをビンディングで両脚に固定したローラースキーのデモンストレーション。

陸上でスキーをやってみたいという発想から生まれたローラースキー。常にテッドの斬新な発想で遊びが生まれていった。

スノーボードが生まれるはるか前、すでに雪上をサーフィンで遊んでいた。

テリー伊東のTV企画で雪上サーフィンを石打スキー場で披露するテッド(写真左)。写真右から2番目は俳優の宍戸錠。

大手商社にも相談しても相手をされなかったサーフィングッズ。自分でやるしか方法はなかった。

スポーツ用品展示会でボードが展示されることは、日本中にサーフィンを広める大きな切っ掛けとなった。

72年、ハワイと日本のサーフィン交流試合のためにハワイへ。写真左から渡部誠一郎、岡野教彦、岡野孝親、マイケル・ホー。中央が大野薫。

79年、夷隅海岸で国内ではじめての国際サーフィン大会が開催された。

阿出川輝雄
(あでがわ・てるお)

1943年生まれ。日本におけるサーフボード・ビルダーの草分け的存在。66年に東京神田にサーフショップをオープンし、サーフボードの製造業を行う傍ら、16㎜サーフィン映画の製作、サーフファッション&グッズの輸入販売、サーフィンイベントの開催、雑誌コラムの執筆など、サーフィンの発展に幅広い角度から寄与する。独学でどんなことにでもチャレンジする精神と夢と遊び心を常に持ち続けた男。アメリカから持ち込んだ「スポーツ遊びという文化」。その夢追いの人生は、多くの人に多大な影響を与えている。