NIKON Sレンジファインダーと駆け抜けてきた時代
私はプロフェッショナルを始め、世界中のカメラ通の間ではチョットばかり名が知れたNIKON 一眼レフカメラのブラックボディーです。当時は私の様な黒ボディーは珍しくて、若い頃はこれでもかなりモテたんですよ。笑。
私がご主人の小林昭さんと行動を共にし始めたのは、確か昭さんのアシスタント時代で、東京オリンピックが開催された1964年だった。もうかれこれ半世紀以上も昭さんのサードアイとして色んなことを記録してきたのです。あの頃はお互い若くて、今にも増して多感だった。時代的にも安保反対だとか新宿大騒乱と、学生運動真っ盛りだった。何かと新宿を中心に若者達が好き勝手な未来思想を掲げていた。そんな光景をバシャバシャとシャッターを押されながら、20代の昭さんと一緒に時代を駆け抜けてきた。お互いあの頃は若かったし、エネルギッシュでしたね、御主人。
いやー、なつかしいな、君とは色んなモノを観て君の中に収めてきたけど、もうそんなになるのか。僕がアシスタントを始めた頃は、ライカを模したNIKON Sレンジファインダーというカメラを使っていたんだが、実は心底君に憧れてたんだよ。それで新品の君を手に入れることは出来なかったけど、あの日銀座の有名なカメラ機材店の銀一でついに君を見つけたんだ。
そうでしたね。
あの頃の新宿や横浜の伊勢佐木町には猥雑な空気が充満していて、ディープで面白かったね。特に60年代の新宿はカウンターカルチャーのメッカだったからな。と、御主人の小林昭さん。
あの頃昭さんはビートニックな詩人、ジャック・ケルアックに傾倒していて仲間達と一晩中熱く語りあったり、ジャズ喫茶に入り浸りでしたね。そうだね、あの頃はコーヒー一杯が100円。それでずっと粘ってビートニック、ジャズ、クラシックそれにヌーベルバーグな映画の話しなんかに熱中していた。
私は昭さんの胸元にぶら下がりながら、一部始終を隈無く観ていました。それは今も変わってませんよ。
そうだね。笑。
それから数年後の1969年、私と昭さんは念願のアメリカへと旅立つ事になるのだが、それまでは東京、横浜のダウンタウンのストリートスナップをひたすら撮りまくっていた。
そういえばこんなこともあった。我々がアメリカへ発つ数日前、私の ボディーの中のフィルムを現像したら、新宿駅が占拠された様子が写っていたなんてことも。そうだったね。まさに歴史的な事柄がバッチリ残されていた。
アメリカ行きを前にバタバタとした日々を過ごす中、いよいよ憧れのPAN AMERICAN AIRで子供の頃から思い焦がれたアメリカへと旅立つ日がやって来た。私はノートやペン、三ヶ月の滞在ビザが押されたパスポート等を入れたPAN AMERICANのバッグを肩に掛け、颯爽とタラップを昇る昭さんと機上のカメラとなった。昭さんなんですか?私がしゃべっているのに。
いやいやこれは言っておきたいんだよ。
またですか?
当時はPAN AMERICAN AIR 通称パンナムのバックに所持品を入れるのが格好良く、流行っていてね。横浜の元町の洒落た女の子が持っていたんだ。イカシテタ。
それが言いたかったんですね。
“聖なる野蛮人”に出てくるウエストベニスカフェの情景の残像がそこにあった
初めて踏んだアメリカ。ロスアンジェルス国際空港に降り立った時はお互いに顔を見合わせ、遂に来たぞってウインクしたのを覚えている。昭さんはかなり興奮していました。確か旅の始まりのファーストショットはLAXエンカウンタービルだったと記憶しています。
富士スピードウェイで行われていたストックカーレースに参戦していた昭さんの友人が紹介してくれたサンタモニカに住む日本人の御夫婦を訪ね、その日から見ず知らずの人の家に3週間くらい厄介になった。
まだアメリカにも慣れていなかったので、昭さんは私を連れ立って歩いて行ける範囲のサンタモニカやビーチの日常やレース場、リバーサイド、目に付くものは何でもスナップしていた。暫くして、ベニスビーチが隣り街だということが判ったが、ジャンキーが多くて危険な街だからと、誰も連れていってくれない。でも行きたい気持ちが先立つ昭さんは、ジャンキーが酒瓶を化も袋に入れて持ち歩くように、トラブルを避ける為に、私を茶色の紙袋に入れて飄々とベニスビーチまで歩いていった。すると、辿り着くとまるで動物が未知の場所にやって来た時にするあの、あたりを見回す仕草のように昭さんは街の細部にまで目を配り「ここだっ」と私をあちこちに向けてバシャバシャやりだした。日本で読み耽ったビートニックなエッセイスト、ローレンス・リプトンの著書でヒッピームーブメントを著した“聖なる野蛮人”に出てくるウエストベニスカフェの情景の残像がそこにあったと、大興奮していたのを覚えている。
“聖なる野蛮人”のイントロダクションでのベニスビーチのくだりが、昭さんのイメージがピタッとしたのでしょう。ビートニックジェネレーションの昭さんにとってジャック・ケルアックやローレンス・リプトンはアイコンのような存在ですから、エキサイトするのも当然の事です。
アメリカへのバージントリップは平凡パンチの仕事もあったので、一ヶ月程で終了した。当初の予想を遙かに上回るアメリカの魅力にすっかりハマった昭さんと私は翌年の1970年に再びアメリカへと旅立ったのです。
サンタモニカ・ピアのすぐ脇に、日本人のボーイフレンドと暮す物凄くステキでイカシタ御夫人が住んでいた。機械の私でさえそう思ったのだから、目の前にある瞬間を逃さずシャッターを切る、カメラマンの昭さんは尚さら“絵になる”そう思ったに違いありません。
御夫人のお隣に「サーフライダー・イン」という、いかにもサンタモニカらしいネーミングの海を見下ろすモーテルが建っていた。
その崖下の海の見える手ごろな値段のアパートに、一ヶ月程滞在することとなり、そこをベースにベニスまで歩いては写真を撮りながらうろうろする日々を送っていた。次第に街や周辺の様子が判り始めると、昭さんはフラワーピープル達が日がな一日ウダウダしていて、歳よりはワイン中毒みたいなジャンクな光景を観ているうちに、多分新宿と被ったのでしょう「俺観たいなフーテンにはぴったりだ」と一人つぶやき、目を輝かせていた。そんな無邪気な昭さんを見ていると、私もベニスがアップタウンの住人が言うよな、ヤバクて怖い街だなんて思えなかった。当時、そこには日本人が住んでいたようだが、一度も会った事がない。昭さんは目もつり上がってなくてカーリーな長髪にヘアーバンドをしていたから、ローカルには東洋人というよりメキシカンに映っていたのでしょう、住民からも違和感を抱かれることなく、街の景色として溶け込んでいた様子でした。当時の昭さんの暮らしぶりは日本で稼いでは渡米という事を繰り返していた。
ラブアンドピースなクリーム色のフォルクスワーゲンのバス
三度目の渡米を果たしたのが、1971年だった。
今回の旅はいつもの旅人は違い、昭さんのアメリカを見る目も更に研ぎすまれていった。フォルクスワーゲンのバスを手に入れたことで、アメリカ、ベニスビーチのそのままの姿を撮る生活が始まったのです。あるヒッピーがフォルクスワーゲンのバスを売りに出しているという話しを聞きつけた私と昭さんは勇んで出掛けていった。そのバスはアメリカを観て廻るのにまさにうってつけでした。
ヒッピーがオーナーだけあって、ラブアンドピースなクリーム色のバスのボディーはベコベコ。笑。しかし、クルマ好きな昭さんは5000kmの走行距離はもとより、当時最先端だった、8トラック付き。
しかも木箱には、昭さんが大好きなジェームス・テーラ、ジョニ・ミッチェルそれにCSN & Nにボブ・ディランなど、ゴキゲンなばかりが20個位入っていた。アパート暮らしの音源はトランジスタラジオだったのに、移動しながら音楽が聴ける。これは、これから始まる旅の大きな原動力となりました。昭さんにとってコのクルマはこの上ない目っけ物。こうしたヤレている方がカセットも取られないし、デイキャンパースタイルのバスにはテーブルと冷蔵庫までセットされている。アメリカを旅するにはうってつけだった。交渉の末、$2,000のディスカウントでシェークハンド。あの時の昭さんは子供が念願だったおもちゃを手に入れたとこのように、満面の笑みを浮かべ旅の扉が開いたと大喜びでした。キャンパーをベニスの裏道に停め、寝泊まりを始めると、昭さん自身が完全にその光景に溶け込み、住人からも自然と受け入れられていった。その親密度は彼等の家でシャワーを浴びるまでに大きく膨らんでいった。
当時のベニスの住民といったら、ブランケットを持ってビーチで寝ているやつから、ヒッピーらしく社会に従属すること無く、自由でいられる職種について、家やアパートにちゃんと暮している者と多種多様な生活を送っていた。彼等はどこかインテリで哲学的でしたよ。
それから74年までアメリカへの行き来を繰り返し、フリーカメラマンのサードアイとして観光客の行かない場所を撮りながらアメリカ中 の旅を堪能しました。あの頃のことは何年経っても、私の中に焦る事無く記録されているんですよ。この時の光景は、昭さんの写真集「P.O.P.」に収められているので、是非ページをめくりながら当時のベニスにタイムスリップして下さい。
昭さん、ここらでまたあの頃のように一緒に旅に出て、色んなものを記録しましょうよ。Ciao!
Text_Riku
小林 昭
1940年東京生まれ。写真家。60歳でサーフィンにチャレンジ。60年代後半から70年代にかけてサーファーやヒッピーのライフスタイルやカルチャーを求め、ベニスやR66を奔走、彼らのディープな世界を撮影。ベニスをフユーチャーした写真集P.O.P.や当時のバイクにスポットを当てたSMILE ROCK RIDEを刊行。
akira-kobayashi.com